Seize the day

悟りの境地で鬼ダンス

アルペジオで人格見えるわ

YouTubeの企画のため即興で連弾したり、恋人から贈ってもらった未知の楽譜を試し弾きしたり、ピアニストが主人公の小説(自分の知識を1から疑った。カワイピアノの歴史どころか、メゾフォルテとピアニッシモの定義すら疑った。気が狂うどころか半周してまともになったかもしれない)の校閲をしたり。
たまたまとはいえ、ここ最近ピアノと向き合う機会が多かった。

 

そこで自分とピアノとの関係を整理した。言葉にするのは恐らく初めてである。
ブラッシュアップしたうえでコラムとして世に出そうと企んだ(ちょうど時事ネタが切れていた)が、やっぱりブログに遺す。
私の生き様を激しく左右した題材だ。どこにも渡すべきではないと判断した。

 


==========
私の概要。
①小中のあいだ、入学式や卒業式や合唱コンクールなどのイベントで『伴奏をする人』だった。伴奏しなかったのは、「HEIWAの鐘」を広島で唄った修学旅行だけだった。
ピティナ・ピアノ・コンペティション、グレンツェンピアノコンクールなどで受賞歴がある。
ヤマハグレード免許(公式ピアノ講師)を中1で取得した。
④週1のレッスンを中2の夏に辞めた。
⑤音大進学のため、高校受験の際は音楽科を検討していた。


=============
父(41歳離れている・地球人・狂人・性別は男)はピアノ奏者だった。
大学在学時〜卒業数年後だか正確なところは知らないが、プロのピアニストとして食っていたものの「運命の恋に落ちた」ためライフスタイルを変えたらしい。私は、父の二度の結婚を含むn回の大恋愛のすえ産まれた。

 

そんな私がピアノを習い始めたのは5歳。「友達みんながしよるけん!」という私の一声に賛同し、2つ上の姉もスタート。
父「好きにやれや」(割愛するが狂人である)。母「家にピアノあるし、まあいっか」。


そのピアノ=自宅のリビングのインテリアと化していた、アップライトピアノ
父が祖父に買ってもらった年季ものなのだが、重厚感のあるつややかな黒を、静かに放っていたのだった。

娘たちが、それをポロンポロンとさわり始めた。そこで我が家にひとつ変化が見られた。

かつてのように、父もピアノを弾くようになったのだ。

 


<素面なら>
・春か秋であること。
・リビングの窓とカーテンが開いていて、レースが揺れる程度に風が通っていること。
・生活音がそこにあること(母がキッチンで料理中、など)。
・調律されてから時間が経っていないこと(年3回は調律師が来ていた)。
<アルコールを摂取しているなら>
・ほどよく酔っ払っていること。
・煙草を切らしていること。
・私たち全員がリビングから離れているか、不在なこと。


条件が揃うと父はテレビを消し、ピアノと会話しようと努めた。
メンデルスゾーンモーツアルトドビュッシー。リスト。歌謡曲から洋楽ポップスまで、15分でも1時間でも。
待っていたかのように、ピアノが弾むのが分かった。子どもながらに私は圧倒され、その音色に息を呑んだ。
父の正体を知ると同時に、この人を超えたいと思った。


==========
半年に1回のピアノの発表会(合同開催なので大規模でぎらついている)ではソロ&連弾を披露するのがお決まりだったが、私の連弾相手はもちろん父だった。姉は「同じピアノ教室の〇〇ちゃんと連弾する!」と通し続けた。
強面の父と、歯抜けで半笑いの私とが横並びになっている写真が、実家には飾られている。

そのあたりまでは良かった。
物心ついた9歳から、私は自宅でピアノの練習をめっきりしなくなってしまった。
「お父さんがピアノ上手いけんラッキー」が、「指摘されたらどうしよう」という恐怖に変わったからだ。

良くも悪くも私を揺り動かしたコンプレックスは、タブーを生んだ。
「その弾き方じゃダメやろが」ならまだ流せる。「他に何か聴かせろ」などと要求されたら?なんなら夕飯どきに「何で最近ピアノ練習せんのや」なんていきなり聞かれたら?
そんな緊張が常に走っていた。
父の存在は、あまりにも大きかった。

 

そのぶん毎週火曜のピアノのレッスンでは楽譜を広げ、のびのび弾いていた(初見能力は中の上なので、全く練習していないことは先生にバレなかった)。
いかんせん練習したくても出来ないのだ。父の出張中(月に一度あるかないか)、鍵のかかっていない放課後の音楽室、友人宅にしかチャンスはなかった。
コンクール前の授業中には白鍵と黒鍵をイメージ。タタン、トントン、机の上で指を踊らせていた(暗譜能力は上の上だった。極端な左脳構造=海馬、映像記憶、感情記憶、聴覚記憶が発達していることに起因している。練習時間が確保できない有事のなか、これに助けられた)。
私のレパートリーたちは、こんなやり方で仕上げた。では、どう創意工夫したか。

 

============

ピアノを弾くことは「自分の思いを音に乗せること」だ。そのためには、多彩な言葉の言い回し=『言語能力』が必要だと思う。
一つの事実を発信する時に、たっくさん形容詞を付けられると満点だ。
例えば。花を見たときに「かわいい花が咲いとったよ」と言われても、「ふーん」で終わってしまう。そこを「小さい黄色の花が、緑の芝生の中に宝石みたいに散らばっとった!今ごろ風に舞いよるかも」というと、イメージが膨らむだろう。
その花が雑草だと聞かされても、あなたは、きっと見に行きたくなる。

譜面に『p(ピアニッシモ)』と書いてあっても、ただの「小さい音」と取るか。あるいは「やさしい風の音」か、「もう好きな人と会えないから伝った涙」と感じるのか。そういうことだ。


もう少し深堀りすると、プライベートでのとびぬけた『経験』もしておいたほうがいい。
生真面目に譜読みをする温室育ちは、演奏も硬い。その真面目さは遊び心や大胆さを奪う。聴いているほうも、次にどんな音が飛び出るか予想できてしまう。それはセンスなんて微塵も感じられないただの音の連なりで、演奏ではない。

 

楽譜上には、書きようのないロマンが山ほど隠されている。演奏者はそのロマンを、血なまぐさい『経験』に基づいて解釈しなければならない。
「このメロディーライン、希望を見出しとるように聞こえるな」
→「でもブレスのタイミングがずっとないけん、切迫した状況っぽいな」
→「このあと短調になるけん、結局どん底に落ちるよっていう合図かも。救いがないっていうテーマに違いない!」といった具合だ。
ここで、『言語能力』だけでは敵わない部分が、どうしても生まれてくる。
人生の喜びや激情。死にたい思い。ピアノに出会った事実。作曲家との共通点。
経験を絡ませストーリーを作り上げて、鍵盤を自由に揺らさなくては。


表現力への絶対的な理解は、コンペに出場するたび確信に変わった。
猛特訓を重ねた英才教育の賜物や、音楽一家の御曹司。10歳やそこらでショパンを弾きこなすテクニックなんて持っていて当たり前、という世界だ。
全国から集まった気取ったクソガキたちが、同じ曲で出来を競い合う。このクソイベントに、四国の田舎者(私)が1人紛れ込んでいるのだ。
そこで「この子、他と違う」と審査員たちに思わせるには?

表現力で勝負するしかなかった。
地区予選突破のタイミングでピアノの先生からは技術的なアドバイスも飛びまくっていたが、本番ではフル無視した。
この年齢とは思えない演奏をホールに響かせる。忘れられない、絶対的な5分を聴かせてやるのだ。
父へのコンプレックス、見てきた景色、これから見たい景色、何もかもを一音一音に托した。あえて弾かない部分も本物だ。余白すらもストーリーにした。
結果は毎回ついてきてくれた。私は本番に強かった。


ちなみに父が私のピアノを最後に聴いたのは中3の頃。いとこの結婚式の余興で演奏したのだが、「惠子はやっぱり俺を超えたなあ」と、母に漏らしていたそうだ。
これ以上嬉しいことはなかった。


==========
家族の話になってしまったが、そういうことだ。
そして、何度も何度も耳にタコができるほど言ってきたが、私は音楽に生かされてきた。そこには『聴く』というインプットだけでなく、『演奏する』というアウトプット、表現の場も設けられていた。


なにげなく手にしたピアノという種は、少しの水と刺激的な肥料を与えられ、すぐに花を咲かせた。鍵盤を初めて叩いて23年。私の命尽きるまで、この花が枯れることはないだろう。

 

 

2022/04/03 royalpain

 

23:13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

https://rockinon.com/news/detail/105348