Seize the day

悟りの境地で鬼ダンス

言葉のセックス

短い会話の中に、その人のレベルは確実に表れる。


同じくらいの語彙を持つ相手には、一生かけてもそうそう巡り合えない。『同じくらい』というのが重要で、少なすぎても多すぎてもいけない。
『姑息』『潮時』を誤用しないとか。『延々と』を『永遠と』と間違えないとか。

 

そのような貴重な相手との会話は、まさに言葉のセックス

(私は『ことせ』といつも表現している。肉体的なセックスは『からせ』=体のセックスである)


通しで見ると濃厚だが、やり取りそのものは軽快で小気味がいい。読まれる行間さえ心地よく、脳裏に焼き付く。なんなら日々のストレスをも減らせる。


いかんせん日本語の語彙は、多言語に比べても膨大なうえ複雑である。そのため天と地の差が開きやすく、語彙力にギャップがある者同士だと実質コミュニケーションが成り立たない。
(そんなことあるかよ、と思うかもしれない。だが、片方が途轍もない我慢をして相手に合わせているのが現実だ)


ことせをするためには、絶対的な語彙力が必要不可欠。

多くの語彙を身につけているということは、人の手に渡り続ける平安時代の小説から、昨日リリースされたアメリカロックバンドの歌詞まで。紡ぎ出された言い回しやリズム、そこに込められた教訓を身につけているということ。先人や誰かの感性に、触れているということ。
5色でしか表現できなかった世界を、100色で表現できるようになるということ。喜びも苦しみも、着々と彩られるということ。

 

この見えぬ賜物は、あなたの放つ『言葉』を通してアウトプットされる。数分の会話で、相手にレベルを判断される。そうして教養の深さを見積もられた結果「ああ、この人に難しい話をしても通じない」と切り捨てられたら?

 きっとその先、重要な話をしてもらえない。

 
一定の語彙力を持つ大人は、明晰に物事を見つめる力がある。バラバラに得た知識や手触りを体系立てて、独自の『死生観』と『哲学観』を携えているのだ。そして、言葉のセックスの相手を探し続けている。


ちなみに「もう無理」「死にたい」「鬼やん」しか繰り返さない人との会話で、語彙が磨かれることは絶対にない。

 

 


2021/07/09 royalpain

17:10